戦争があったことは知っているが、詳細を知らないことが現実です。
戦争の特集見ても「兵隊の大人と兵隊を支える10代、そして生きて帰りを待つ女性とこども」の構成。
イベントのひとつで博物館に行く機会があったので書こうと思う。
東村山ふるさと歴史館に行く前は都や県の歴史館より伝える力は薄いと思って行ったが・・・。
入ったらびっくり!!しっかりしているのでないか!!!
学者目線とかではなく、誰でも楽しく学習できるって誇りに思う。
その中からひとつ取り上げたい。
陸軍少年通信兵学校
東村山に設置された軍事施設である「陸軍少年通信兵学校」(のち東京陸軍少年通信兵学校)について取り上げます。同校は、通信技術の発達に対応できる若年層の下士官養成機関として開校し、1942年(昭和17)10月に東村山の地に移転してきました。全国から受験し合格した15歳前後の少年たちが、モールス信号の送受信や通信機の取扱い等の厳しい訓練を受け、寝食を共にしていました。彼らは戦地に転戦し、作戦命令や報告を通信し、あるいは東村山の地で終戦を迎えました。
東村山ふるさと歴史館の説明にあるように「全国から試験で集められた15歳前後の少年たち」ってどんな意思で集まっただろうか。国を支える気持ちだろうか。それとも通信技術や無線技術を学びつつ次の技術を作りたい意思で来たのだろうか。
最初(
サイト見る前)展示見たときは、戦場では重い銃器は使えないし、こどもであれば社会的知識が浅いので情報の意図を曲げずに伝える事ができる。関東エリア付近からいわゆる頭がいいこどもを集めたと思った。
頭がいいことや耳が鋭い、地図が読めるなど少年にしかできない力を生かす目的と思ったが、全国からになると・・・。

志願案内を見ると地元だから保管状況が良い。どんなことが書かれているんだろうか?
いつでも中も見られるように4kでとって誰でも見られるようにすべきだと。

襟章を誇りに学んでいたのでしょう。何人が志願・試験を受け、どのような問題を受け、何人が学んだのか実物で見たいと思った。
戦争が終わり、無線系大学に行けただろうか・・・。
昭和は情報も当然無かったに等しいでしょう。
今だからできる技術を使い、いつでも誰でも中が見られるように東京がリードすべきと思う。
子どものとき、東村山音頭を見た。そのときは架空か、東村の山に住む祭りと思っていた。
東京に住み、初めて東京に市や村があることを知り、移住して東村山市があることを知った。
故郷が東村山市であることが歌になり、全国に知られる街に・・・。
都も国も多摩地区を見ていないことがわかる。法人税ががっぽり入る中で、「電車が一本も通っていない街」や「ださいたまよりひどいいいかげんさ」など人としてみていないのが伝わる。
その中でも東村山市は街の名前に負けないまちづくりは誇りに思うひとつと思う。
サザエさんのタマちゃんって多摩からつけているのかな?
東村山ふるさと歴史館